ロマン・ロランの生涯 ―― Vie de Romain Rolland Depuis 29 Janvier 2016 |
【生前】 1866年ー 1880年ー 1890年ー 1900年ー 1910年ー 1920年ー 1930年ー 1940年ー |
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【没後】 1950年ー 1960年ー 1970年ー 1980年ー 1990年ー 2000年ー 2010年ー 2020年ー |
ブログ ロマン・ロランと生きる |
ロマン・ロラン研究所(京都) |
Association Romain Rolland |
■重要なのは、その作家が何を考えたかということではなく(中略)その思想がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、ということなのです (1916年12月の日記 みすず書房『ロマン・ロラン全集【29】』所収「戦時の日記Ⅲ」蛯原徳夫ほか訳 P1009) ■私が私自身や他の人びとに教えようとしていることは、みずからの考えをけっして偽らないこと、人がただ「思いこんだり」希望したりしているだけのことを、知っているなどとはけっして言わないこと、自分の知っていることをそのままに言うこと、知っていようと知っていまいと、力(エネルギー)と愛とを元のままそっくり保つこと、などです。『ミケランジェロの生涯』の序文の言葉「人や生をありのままに見て、そのまま愛し、行動すること……」です。それが私の役割です。そしてまた、この世に在する力の源や光の中心のすべてを、他の人びとのために発見したり知らせたりすることもそうです (1926年9月26日付 ミス・スレイド宛書簡 みすず書房『ロマン・ロラン全集【42】』蛯原徳夫訳 P187) ■偉人を賛える最もよい方法は、その偉人の範例にならって、またその偉人たちの開いてくれた道にそって、私たちが生活したり行動したりすることである (1926年11月11日付 タゴール宛書簡 みすず書房『ロマン・ロラン全集【42】』蛯原徳夫訳 P64) |
小説『ジャン=クリストフ』や評伝『ベートーヴェンの生涯』などで知られるフランスの作家ロマン・ロラン(1866~1944)。彼は新しい世界を開いてみせる大文豪や大思想家ではないかもしれません。しかし、生きることに真摯で誠実であり、誰よりも敬虔に本当のことを語りました。それゆえ人生に悩むすべての人の友となり、生涯の師と仰ぐ人も少なくありません。今なぜロマン・ロランなのか。そう問えるほど、私たちは人間的に成熟したでしょうか。ロランの生涯をたどりながら、彼の生き方や考え方を見直したいと思います。 ロマン・ロラン読書案内 / ロマン・ロラン関連人物 個人運営のサイトです。お問い合わせはメールにて承ります。 |
1866年― 幼年時代 | ||
年(歳) | 事項 | 関連事項 |
1866(0) |
1月29日、ロマン・エドム・ポール=エミール・ロラン(ロマン・ロラン)誕生。 生地はフランス中央部のブルゴーニュ地方、・ニヴェルネー県クラムシー。父は公証人エミール・ロラン、母は公証人の娘アントワネット=マリー・クロー。母は熱烈なカトリックだった。女中の不注意で1時間あまり寒気にさらされ、生涯にわたる気管支炎と呼吸困難の原因となる。 | ドストエフスキーが『罪と罰』の連載を開始。アルフレッド・ノーベルがダイナマイトを発明。黒田清輝誕生。 |
1868(2) | 最初の妹マドレーヌ誕生。 | 戊辰戦争。元号が明治に。ゴーリキー、アンドレ・シュアレス、ポール・クローデル誕生。 |
1871(5) | 6月、妹マドレーヌが「憐みの啓示」を残して3歳で死去。 | 普仏戦争でフランス敗北。パリ・コミューンの成立と崩壊。ジョルジュ・ルオー、マルセル・プルースト誕生。 |
1872(6) | 第2の妹が誕生。前年に急逝した女児の思い出のために、再びマドレーヌと名付けられる(彼女は後年、兄の仕事の協力者になる。英語に長けていたため、特にタゴールやガンジーとの交流になくてはならない存在だった)。 | 岩倉使節団が米・欧へ。レオン・ブルム、バートランド・ラッセル誕生。マッツィーニ死去。 |
1873(7) | クラムシー学院(現ロマン・ロラン学院)に入学。母からピアノの手ほどきを受け、音楽に親しむ。祖父の書斎に引きこもり、手当たり次第に本を読む。コルネイユなどのフランス古典劇に触れ、シェイクスピアを知る。 | ウィーン万博。日本、徴兵令を施行。ナポレオン三世死去。シャルル・ペギー、アンリ・バルビュス誕生。 |
1874(8) | 8月15日、母の守護聖人(聖母マリア)の祝日を機に、詩句による祝詞を書く。 | モーム、ホーフマンスタール、チャーチル誕生。ジュール・ミシュレ死去。 |
1877(11) | 友人のボワドとジュール・ヴェルヌ風の長編小説『エルモン艦長』を書く。 | 西南戦争。エジソンが蓄音機を実演。ヘッセ、コルトー誕生。クールベ死去。 |
1878(12) | ボワドと『火山島への旅の物語』をつくる。シャトーブリアンの『ナチェーズ』に着想を得た長編小説を1人で執筆。 | アプトン・シンクレア、カロッサ、スターリン、与謝野晶子、吉田茂誕生。 |
1879(13) | 『フロリダの冒険家たち』、アレクサンドラン詩形による三幕物の悲劇『アッティラの婚姻』を執筆。こうした若書きの原稿は後に破棄される。 | アインシュタイン誕生。 |
1880年― 学生時代 | ||
1880(14) | 10月、ロランの教育のため、家族でパリに転居(父は数代続いた公証人事務所を手放し、パリの不動産銀行の下働きとなる)。 サン=ルイ高等中学の修辞科と哲学科で学ぶ。カトリックの信仰を失っている自分に気付く。 | エジソンが白熱電球の特許を米国で取得。ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』を刊行、翌年1月に死去。 |
1881(15) | ルネ・アルコス誕生。 | |
1882(16) | 9月、初めてのスイス旅行。フェルネーの台地で「自然の啓示」を受ける。シャトレー座で初めて交響曲を聞く。エコール・ノルマル(高等師範学校)入試のためルイ=ル=グラン高等中学に転校。この学校でポール・クローデルを知る。 | 伊藤博文が憲法調査のため渡欧。上野動物園開園。ダーウィン、ガリバルディ死去。ヴィルドラック、ジェイムズ・ジョイス誕生。 |
1883(17) | 8月、スイスのヴィルヌーヴでヴィクトル・ユゴーを見る。老詩人の風貌と、民衆の歓呼に応える彼の「共和国、万歳!」という叫びは、少年の心に深い印象を残す。真の意味での「音楽の啓示」を受ける。 | ヤスパース、オルテガ、カフカ、高村光太郎、志賀直哉誕生。ワーグナー、マルクス、ツルゲーネフ死去。 |
1884(18) | 数々の啓示を得る。スピノザ『エチカ』による「知性の啓示」を受け、自己を再発見。このスピノザ体験はロランの魂に決定的な影響を与える。ベートーヴェン、ワーグナー、シェイクスピアなどに熱中し、自作の大ミサを指揮するリストを見る。5月、ユゴーに再び会う。エコール・ノルマルの入試に失敗。 | ジャン=リシャール・ブロック、パナイト・イストラティ誕生。 |
1885(19) | 5月22日、臨終のユゴーを見舞う。6月1日、ユゴーの葬儀に参列。入試に再び失敗。シェイクスピアの『ハムレット』を繰り返し読み、一冊のノート全部をハムレットとの対話で埋める。 | ジュール・ロマン、フランソワ・モーリヤック誕生。 |
1886(20) | 3月、ハムレットを観劇。7月、エコール・ノルマルに合格(10月に入学)。寄宿舎でアンドレ・シュアレスと同室となる。12月26日、哲学者ルナンを訪問し、2人きりで対話する。トルストイ『戦争と平和』、ドストエフスキー『白痴』『カラマーゾフの兄弟』、フローベール『ボヴァリー夫人』、スタンダール『赤と黒』『パルムの僧院』等を読む。 | 米で自由の女神像が除幕。フランツ・リスト、ラーマクリシュナ死去。 |
1887(21) | クローデルやシュアレスとしきりに音楽会へ行く。フランドル、ベルギー、オランダ、ライン地方へ旅行。トルストイに2度手紙を書き、10月にトルストイから「親愛な弟よ」と呼びかける長文の返事を受け取る。この年、哲学科から歴史科に転籍。歴史の指導教授はガブリエル・モノー。サッカレー的な雰囲気の中篇小説『子どもの恋』を書く。 | |
1888(22) | クローデルやシュアレスとしきりに音楽会へ行く。 3月、セザール・フランクを訪問。4~5月、哲学論文「信ナルガユエニワレ信ズ」を書く。8~9月、6回目のスイス旅行。 | |
1889(23) | エコール・ノルマル卒業。歴史科教授の資格を得る。夏、モノー教授の紹介で、マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークを知る。彼女はニーチェやワーグナーなどの友人だった。11月、ローマのフランス学院に留学し、バチカンの古文書館などで研究。年末にローマのマルヴィーダ宅を訪れる。 | ジャワハルラル・ネルー誕生。 |
1890年― ローマの光 | ||
1890(24) | しばしばマルヴィーダと会う。真のゲルマン精神について啓示されたばかりでなく、人間への愛と理解を学ぶ。マルヴィーダの家で、生涯にわたり友情を結ぶイタリア貴族の娘ソフィーア・ゴンザーガに出会う。3月、ローマ郊外ジャニコロの丘でクリストフのビジョンを見る(ジャニコロの啓示)。恋愛小説『ローマの春』を書くが破り捨てる。史劇『オルシーノ』、戯曲『エンペドクレス』を執筆。 | ボリス・パステルナーク、豊島与志雄誕生。 |
1891(25) | イタリア各地を遍歴。7月、マルヴィーダとバイロイトを訪問。『パルジファル』『トリスタン』『タンホイザー』を聞く。史劇『オルシーノ』は、モノーの尽力でコメディ・フランセーズに提出され、名優ムネ・シュリーが共感を示したものの拒絶される。『パオリーニ家の人々』などの戯曲を書き続ける。 | 倉田百三、アントニオ・グラムシ誕生。アルチュール・ランボー死去。 |
1892(26) | 戯曲「ニオベー」執筆。4月11日、コレージュ・ド・フランスの古典文献学者ミシェル・ブレアルの娘クロチルドと出会う。ユダヤの血をひく彼女は美しく、知的であり、音楽もよくした。ロランとクロチルドは8月8日に婚約、9月ポルニックへ旅行、10月31日に結婚。11月、博士論文の取材のため妻とイタリアへ旅立つ。 | 芥川龍之介、成瀬正一、尾崎喜八誕生。 |
1893(27) | ローマで名女優サラ・ベルナールに会う。帰国後、博士論文執筆。戯曲「カリギュラ」脱稿。 | モーパッサン死去。 |
1894(28) | 戯曲「マントーヴァの包囲」を書く。演出家リュネ=ポーと知り合う。 | ドレフュス事件。 |
1895(29) | 文学博士となる。主要論文は『近代叙情劇の起源――リュリおよびスカルラッティ以前のヨーロッパ・オペラ史』、補助論文は『16世紀イタリア絵画凋落の原因』(ラテン語)。エコール・ノルマルで芸術史の講師となる。職業的安定を得て家族は満足したが、ロランの芸術への本然的欲求はさらに強まり、ひとり苦悩する。戯曲「聖王ルイ」執筆。9月「社会主義の啓示」。11月から教えた学生の中に、未来の友シャルル・ペギーがいた。ベルギー、オランダへ旅行。 | ポール・エリュアール誕生。ホセ・マルティが戦死。 |
1896(30) | 戯曲「サヴォナローラ」(未完成)、史劇「ジャンヌ・ド・ピエンヌ」執筆。「La Revue d'Art dramatique(劇芸術評論)」誌に寄稿し始める。バイロイトへ旅行。戯曲「アエルト」の大要を書く。 | ヴェルレーヌ死去。ホセ・リサールが銃殺される。 |
1897(31) | 妻の家族と内面的な離縁状態に陥る。戯曲「アエルト」を完成。戯曲「敗れし人々」を書く。5月、妻とローマへ旅行し、ダヌンツィオを知る。ルイ・ジレとの交友が始まる。戯曲「聖王ルイ」が、ロランの作品として初めて「劇芸術評論」誌に掲載される。トルストイに3度目の手紙を書く。 | ルイ・アラゴン誕生。 |
1898(32) | 戯曲「アエルト」を発表、ウーヴル座により初演。同座は続いてサン=ジュスト作「死者たち」を上演するが、この作品はドレフュス事件の熱狂のさなか、わずか十数日で書き上げられたロランの戯曲「狼」である。この作品に感動したロランの教え子ペギーが「狼」を出版。先生と生徒という関係ではない、友人としての交友が始まる。革命劇「ダントン」執筆。 | 片山敏彦誕生。マラルメ、シャヴァンヌ死去。 |
1899(33) | 「Revue de Paris(パリ評論)」誌に音楽や演劇に関する評論を書く。4月、妻とベルリンへ旅行し、リヒャルト・シュトラウスと会う。7月には妻とイタリアへ行き、ダヌンツィオと女優エレオノーラ・ドゥーゼと再会。革命劇「理性の勝利」執筆・上演。戯曲「モンテスパン夫人」「三人の恋する女」を書く。 | ヘミングウェイ誕生。 |
1900年― ジャン=クリストフ | ||
1900(34) | ペギーが「カイエ・ド・ラ・キャンゼーヌ(半月手帖)」を創刊。同誌に戯曲「ダントン」を発表。4月、妻とローマ旅行。夏は1人でスイス(ニヨン、ルツェルン)で過ごす。フランシス・ジュールダンとの交友が始まる。 | 高田博厚誕生。ニーチェ死去。 |
1901(35) | 2月、クロチルドと離婚。ドイツへ旅立ち、ボンでベートーヴェンの生家を、ウィーンで死去した家を訪ね、マインツでベートーヴェン記念音楽会に出席する。帰国すると、『ジャン=クリストフ』を書くことになるモンパルナス大通り162番地の小さなアパートに入り、新たな生活を始める。夏、スイスでソフィーア・ゴンザーガと再会、文通が始まる。トルストイに4度目の手紙を書く。「1901年から、わたしは遺言を書いている(中略)死と面と向かって生き、そして書きなさい! 死がいることが偉大な作品や偉大な思想を霊感します(中略)あなたが生きるのを助けてくれるほど死が親しいものとなるように努めなさい」(ジャン・ボダン宛て書簡 1924年12月9日付 R・R全集38 P402) | 第1回ノーベル文学賞がフランスの詩人シュリ・プリュドムに贈られる。アンドレ・マルロー誕生。 |
1902(36) | ロランの革命劇「7月14日」をジェミニがルネサンス座で上演。その上演料でスイス、イタリアへ旅行し、ローマでマルヴィーダと最後の会見。5月からパリ大学附属の社会教育高等学院で音楽史を講じる。ボーア戦争に霊感を受けた戯曲「時は来らん」を書き、「文明」に捧げる。注文に応じて執筆した評伝「ミレー」がロンドンで出版(英語版のみ)。 | ゾラ、ヴィヴェカーナンダ死去。 |
1903(37) | 評伝『ベートーヴェンの生涯』をペギーの「カイエ」に発表。反響を呼び、多くの読者を得る。4月、マルヴィーダが死去。『ジャン=クリストフ』を書き始め、第1巻「曙」と第2巻「朝」を完成する。論文集『民衆劇論』刊行。戯曲「時は来らん」発表・上演。 | 中野好夫誕生。 |
1904(38) | 『ジャン=クリストフ』第1巻「曙」から「カイエ」に発表を開始(17分冊で完結)。第3巻「青春」執筆。戯曲「モンテスパン夫人」を発表。11月からソルボンヌ大学で芸術史を担当し、ピアノを弾きながら音楽史を講じる。 | パブロ・ネルーダ、新庄嘉章、蛯原徳夫誕生。 |
1905(39) | アルザス=ロレーヌへ旅行し、アルベルト・シュヴァイツァーやリシュタンベルジェらと知り合う。戯曲「三人の恋する女」、研究書『ミケランジェロ』(プロン版)を出版。論文「音楽都市としてのパリ」をドイツ語で発表。 | サルトル、ショーロホフ、新村猛誕生。 |
1906(40) | 評伝『ミケランジェロの生涯』を「カイエ」に発表。『ジャン=クリストフ』第4巻「反抗」を発表、第6巻「アントワネット」執筆。アルフォンス・ド・シャトーブリアンとの交友が始まり、兄弟のような親友となる。 | セザンヌ死去。 |
1907(41) | スペイン旅行。『ジャン=クリストフ』第5巻「広場の市」執筆。 | シュリ・プリュドム死去。 |
1908(42) | 『ジャン・クリストフ』第7巻「家の中」完成。これまで書いた音楽評論をまとめ、『今日の音楽家たち』『ありし日の音楽家たち』を刊行。 | ボーヴォワール誕生。 |
1909(43) | 『ジャン=クリストフ』第8巻「女友だち」執筆。戯曲「7月14日」「ダントン」「狼」を収録した『革命劇集』を出版。 | |
1910年― 戦いを超えて(第一次世界大戦) | ||
1910(44) | 『ジャン=クリストフ』第9巻「燃え立つ茂み」を書く。研究書『ヘンデル』刊行。ジャン=リシャール・ブロックとの交友が始まる。10月、自動車事故にあい、腕と左足を痛めて療養する。回想『幼時の思い出』を執筆。11月、トルストイ死去。 | |
1911(45) | 2月、作家アンリ・バシュランに手紙。事故による怪我の回復期をイタリアで過ごし、評伝『トルストイの生涯』を執筆・刊行。夏をスイスで過ごし、『ジャン=クリストフ』最終巻「新しい日」を書く。社会教育高等学院を辞任。エルネスト・ブロッホとの交友が始まる。高村光太郎がロランの「クロオド デユビユツシイの歌劇」を翻訳し、初めて日本に紹介(雑誌「太陽」)。 | メーテルリンクがノーベル文学賞を受賞。 |
1912(46) | グラチアのエピソードを描くためにイタリアで春を過ごし、10月に『ジャン=クリストフ』全巻を脱稿。7月にはパリ大学を辞任。芸術家か教授かという青年時代からの悩みに終止符を打ち、全面的に芸術に打ち込めるようになった。「スイス評論」誌に寄稿を始める。 | ゲルハルト・ハウプトマンがノーベル文学賞を受賞。 |
1913(47) | 3月、シュテファン・ツヴァイクとの交友が始まり、彼の紹介で近くに住んでいたリルケを知る。4月からスイスに滞在し、新作『コラ・ブルニョン』の執筆を開始。6月、フランス・アカデミーが『ジャン=クリストフ』に文学大賞を授与。ポール・セーペルがロランを対象とした初めての評伝『ロマン・ロラン――人と思想』を刊行。ラヴィニャックの『音楽辞典』に寄稿。論文「スタンダールと音楽」を、スタンダール全集「ハイドンの生涯」の序文として書く。高村光太郎が『ジャン・クリストフ』の一部を翻訳、紹介(雑誌「生活」)。オランドルフ社がロラン選文集の出版を企画、ロランは編集者にルイ・ジレを指名。 | ウィルソンが第28代米大統領に就任。プルーストが『失われた時を求めて』第1部を自費出版。タゴールがアジア人初のノーベル文学賞を受賞。アルベール・カミュ、ロバート・キャパ誕生。岡倉天心、徳川慶喜が死去。 |
1914(48) | 3月、ボワソナード街へ移転。6月、スイスに旅立つ。旅行中の7月、社会主義の指導者ジャン・ジョーレスが暗殺され、第一次世界大戦が勃発。ロランはスイスにとどまり、「ジュルナル・ド・ジュネーヴ」紙に戦争に反対する論説「ゲルハルト・ハウプトマンへの公開状」(9月2日号)、「戦いを超えて」(9月15日号)などを発表。仏独両陣営から憎悪と非難を招く。9月5日、盟友ペギーが戦死。10月、国際赤十字の戦時俘虜事務局で働き始める(1915年3月まで)。11月、英国「ケンブリッジ・マガジン」が「戦いを超えて」の英訳を掲載し、バウズ&バウズ書店が冊子化。 | 6月28日、オーストリア皇太子夫妻をセルビアの一青年が暗殺。7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦。第一次世界大戦へ。 |
1915(49) | 1月、パリで「戦いを超えて」の小冊子を出す動き。3月、英国バウズ&バウズ書店が論説「偶像」の英訳を刊行。4月、東京帝国大学の学生で、芥川龍之介の友人・成瀬正一からの手紙が届き、文通が始まる。ロランを裏切者として告発したアンリ・マシスの『フランスに反対するロマン・ロラン』が刊行され、反ロラン的な雰囲気がフランスにみなぎる。一方、シュヴァイツァーなど一部の知識人をはじめ、前線の兵士やその母親、学生などから感謝と励ましの手紙も届く。8月、アメデ・デュノワがロランの論説「戦いを超えて」「戦争中の慈善」を収録した小冊子を刊行。次第に「ジュルナル・ド・ジュネーヴ」紙のような中立国の新聞もロランに門戸を閉ざすようになり、ジョーレス一周忌の追悼文を発表するのにも骨を折る。10月、アンリ・ギルボーが小冊子「ロマン・ロランに味方して」を発行。11月、友人たちの懸命な努力により、一連の論説をまとめた『戦いを超えて』がオランドルフ社から出る。しかし、聞く耳を持たない人々に語ることの無益さを痛感したロランは、芸術に閉じこもろうとする。当時スイスにいたヘルマン・ヘッセ、アインシュタイン、カール・シュピッテラーとの交友が始まる。日本では内藤濯が評伝『ロマン・ロオランの思想と芸術』(天弦堂)を出版。 | ミシェル・ブレアル死去。 |
1916(50) | アンリ・ギルボーが「ドゥマン」誌を創刊し、ロランは再びペンをとり始める。「シェイクスピアにおける真理」「虐殺された民衆に」等の論説を執筆。ゴーリキーとの交友が始まる。タゴールの東京での講演をいち早く取り上げる。1915年度のノーベル文学賞を受賞。賞金は国際赤十字とフランスの様々な社会事業に寄付した。12月、「『ヨーロッパ人』という肩書を、私はもはや好まない(中略)私は人類に属する(中略)私は人間たちの祖国を探し求めている」と日記に記す。『トルストイの生涯』の邦訳が、成瀬正一、芥川龍之介、菊池寛らの共訳で出る(訳者の名義は成瀬正一のみ、新潮社)。 | ヴェルハーレン死去。 |
1917(51) | ロラン選文集を編纂していたルイ・ジレが選文集の出版を拒否、発売前に廃棄処分にする。レーニンからのロシアへの同行の依頼を断る。5月、ロシア革命にあたり「解放者たる自由なロシアに」を書いて支持を表明する。 | ジョン・F・ケネディ誕生。 |
1918(52) | 3月、論文「精神のインターナショナルのために」等を執筆。4月、随想『アグリゲンツムのエンペドクレス』をジュネーヴのカルメル社から刊行。風刺劇「リリュリ」、小説『クレランボー』、「ウィルソン大統領への公開状」等の論説の執筆を続ける。7月、日本人として初めて成瀬正一が来訪。 | 11月11日、ドイツ代表が休戦条約に署名。ソルジェニーツィン誕生。 |
1919(53) | 論文「ベルリンの血ぬられた1月」でドイツ革命の失政と、リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルクの暗殺を取り上げる。論説集『先駆者たち』、小説『コラ・ブルニョン』、風刺劇「リリュリ」が刊行される。2月、愛弟子のジャン・ド・サン=プリがスペイン風邪のため22歳で死去。5月5日、母急病の報を受けてパリへ戻る。同19日、母死去。6月、「ユマニテ」紙に「精神の独立宣言」を発表。バーナード・ショーと小さな論争もあったが、世界の多数の知識人がこれに署名する。 | シュピッテラーがノーベル文学賞を受賞。ルノワール死去。 |
1920年― 欧州の良心 | ||
1920(54) | 2月、愛弟子ジャンの母に手紙。戦争から生れた小説『ピエールとリュース』『クレランボー』を発表。8月、初めてガンジーの名前を知る。友人たちがロランの評伝を発表(ピエール・ジャン・ジューヴ『生きているロマン・ロラン』、ツヴァイク『ロマン・ロラン――人と作品』〈ドイツ語〉)。 | |
1921(55) | 4月、タゴールがパリにロランを訪ねる。スイスへ行き、小説『魅せられたる魂』の執筆に着手。10月に第1巻「アンネットとシルヴィ」を脱稿。アンリ・バルビュスおよび「クラルテ」グループと論争。シナリオ「機械の反抗」を書き、現代文明を風刺する。マルセル・マルチネ編『ロマン・ロラン選文集』刊行。自殺を図ったルーマニア出身の若者パナイト・イストラティに選文集を贈る。イストラティは後にフランス語作家として大成。人間社が日本初のロマン・ロラン全集の出版を開始(全7巻)。 | 10月、国際ペンクラブ結成。アナトール・フランスがノーベル文学賞を受賞。サン=サーンス死去。 |
1922(56) | 4月、スイスのレマン湖畔ヴィルヌーヴの「ヴィラ・オルガ」に父・妹と定住。インドのカリダス・ナーグ来訪。『魅せられたる魂』第1巻「アンネットとシルヴィ」刊行。第2巻「夏」の大半を書き上げる。戯曲「敗れし人々」刊行(1897年執筆のもの)。冬、英語が堪能な妹マドレーヌとガンジーの著作を読むことに費やす。 | イタリアでムッソリーニが組閣。ソ連成立。 |
1923(57) | 評伝『マハトマ・ガンジー』を執筆。ロランの激励・援助のもと、アルコス、バザルジェット、ブロック、ヴィルドラックらが創刊した「ヨーロッパ」誌にこれを連載(12月に1冊にまとめて出版)。5月、第1回ペンクラブ大会出席のためロンドンを訪問。後に再婚するマリー・クーダチェヴァとの文通が始まる。『魅せられたる魂』第2巻「夏」刊行。 | ヒトラーがミュンヘンで蜂起。 |
1924(58) | 1月、レーニン死去。健康が優れず、精神的遺言として回想『内面の旅路』を書き始める。愛弟子ジャンの書簡集に序文を書く。革命劇『愛と死との戯れ』執筆。ウィーンやプラハを訪問し、シュトラウスに会う。ガンジーから初めての手紙。 | イタリアの反ファシズム社会主義者マッテオッティ暗殺。アナトール・フランス、シュピッテラー死去。 |
1925(59) | 4月、歴史家マルセル・ベカスに手紙。7月、「ローマの影響は私の全作品におよんでいる」と手紙に書く。革命劇の序曲となる「花の復活祭」を執筆。マッテオッティ暗殺などを受けて再び社会問題に引き戻される。『魅せられたる魂』第3巻「母と子」執筆。 | バーナード・ショーがノーベル文学賞を受賞。ヒトラー『わが闘争』第1巻が出る。三島由紀夫誕生。 |
1926(60) | 1月29日、60歳の誕生日を迎える。「ヨーロッパ」誌2月号は記念特集をロランに捧げ、バルビュス、シャトーブリアン、デュアメル、ゴーリキー、ルナチャルスキー、モンテルラン、アプトン・シンクレア、エルンスト・トーラー、ウナムノ、アルコス、マルチネ、島崎藤村らが賛辞を寄稿。スイスではゴーリキー、デュアメル、ツヴァイクが編集代表となり、大冊『ロマン・ロランの友らの書』が刊行される。これにはアランやガンジー、シュヴァイツァー、アインシュタイン、ヘッセらのほか、日本から倉田百三、片山敏彦、高田博厚、尾崎喜八らが寄稿する。4月、イストラティ来訪。5月と6月にインドの政治家ネルーが娘インディラ(当時7歳)とともに来訪(10月、1927年5月、1935年10月にも来訪する)。タゴールもヴィラ・オルガを訪ねる。11月、バルビュスと協力し、「反ファシズム国際委員会」結成の準備をする。 | リルケ、クロード・モネ、エレン・ケイ死去。 |
1927(61) | 2月、第1回反ファシズム国際委員会がパリで開かれる。アインシュタイン、バルビュス、ロランは名誉議長となる。3月、ウィーンのベートーヴェン100年祭で「ベートーヴェンへの感謝」と題して講演。10月、ソビエト革命10年記念にメッセージ。ロシア革命は歴史的必然であり、ソ連は人類の強力な前衛であるという信念を述べるとともに、イデオロギーと独裁的精神の偏狭さを批判し警戒する。研究書『ベートーヴェン――偉大な創造の時期』に着手し、第1巻「エロイカからアパッショナータまで」を書きあげる。革命劇の終曲「獅子座の流星群」を執筆。『魅せられたる魂』第3巻「母と子」刊行。 | アンリ・ベルクソンがノーベル文学賞を受賞。芥川龍之介が自殺。 |
1928(62) | 評伝『ラーマクリシュナの生涯』『ヴィヴェカーナンダの生涯と世界的福音』を執筆。『ベートーヴェン研究』第1巻「エロイカからアパッショナータまで」刊行。上田秋夫、中村星湖が来訪。 | エリ・ヴィーゼル、山口三夫誕生。トーマス・ハーディ死去。 |
1929(63) | 1923年から文通していたマリー・クーダチェヴァと会う。『ベートーヴェン研究』第2巻「ゲーテとベートーヴェン」執筆。11月、『魅せられたる魂』第4巻「予告するもの」に着手。『ラーマクリシュナの生涯』刊行。片山敏彦が来訪。 | ソ連がトロツキーを追放。世界恐慌。トーマス・マンがノーベル文学賞を受賞。12月、ガンジー、ネルーらによるインド独立宣言。マーティン・ルーサー・キング、村上光彦、山崎庸一郎誕生。 |
1930年― 反ファシズム闘争 | ||
1930(64) | 4月、若きジャーナリストへの手紙。『ベートーヴェン研究』第2巻「ゲーテとベートーヴェン」と『ヴィヴェカーナンダの生涯』刊行。高田博厚が来訪。世界の動きを注視する。冬は健康状態が極度に悪化。 | |
1931(65) | 4月、「過去への訣別」を書いて半生を振り返り、新たな飛躍へ決意を示す。6月、父親が94歳で死去。12月、ガンジーが来訪。「スピノザの閃光」執筆・発表。ガンジーやアインシュタインらと協力して、タゴールの生誕70周年を記念する大冊『タゴール黄金の書』を刊行、初期の戯曲「ニオベ」の断片を発表。 | 9月、満州事変勃発。 |
1932(66) | 5月、バルビュスとともに世界の知識人にアピールを発し、精神労働者と肉体労働者の統一戦線を呼びかける。8月27・28日、アムステルダムで「反戦・反ファシズム全党派世界大会」が開かれ、初日にロランのメッセージが朗読される。レニングラードの学術アカデミーの名誉会員に選ばれる。『魅せられたる魂』第4巻「予告する者①一つの世界の死」刊行。倉田百三著『出家とその弟子』の仏語版に序文を寄せる。ベルタ・シュライヘアの編訳で、ロランとマルヴィーダの往復書簡集(1890-1891)が出る(ドイツ語)。 | 3月、満州国建国。5月、フランス大統領ドゥメール暗殺。ルブランが後継大統領となる。5・15事件で犬養毅首相が殺害される。チャップリン来日。8月、ドイツ総選挙でナチス党が圧勝。 |
1933(67) | 1年の大半を反ファシズム闘争に捧げる。4月、『魅せられたる魂』全巻を脱稿。ヒトラー政府からのゲーテ賞を拒否。6月、ロランを名誉総裁として反ファシズム国際委員会が結成される。『戦いを超えて』と『先駆者たち』のドイツ語版合本『自由精神』がヒトラー政府の命令により焼かれる。『魅せられたる魂』第4巻「予告する者②出産」刊行・完結。 | 1月、ヒトラー内閣が成立。2月、小林多喜二が特高の拷問により虐殺される。3月、フランクリン・ルーズベルトが米大統領に就任。日本が国際連盟脱退。4月、ドイツでユダヤ人官吏の追放が始まる。 |
1934(68) | 3月、フランスの作家・思想家・学者たちによる反ファシスト行動委員会が成立。その第1回宣言にアラン、ジイド、ブロック、マルタン・デュ・ガール、ヴィルドラック、ゲーノらとともに署名。マリー・クーダチェヴァと再婚。「パノラマ」と題して過去15年間の歩みを反省し、新たな行動への決意を固める。9月、獄中のグラムシ救出を訴える。 | 5月、東郷平八郎死去。8月、ヒトラーが総統兼首相となる。11月、ベーブ・ルース来日。 |
1935(69) | 論説集『闘争の15年』『革命によって平和を』刊行。6月、パリにおける第1回文化擁護国際作家大会にメッセージを送る。6月23日-7月21日、ソ連訪問。ワルシャワでバルビュスに会い、滞ソ中はゴーリキー家に滞在。8月、バルビュスがモスクワで客死。葬儀ではロランの弔辞をアンドレ・マルローが代読した。 | 3月、ヒトラーが再軍備を宣言。4月、イストラティ死去。7月、フランス人民戦線結成。 |
1936(70) | 1月、アラゴンやブロックらにより生誕70周年の祝賀会が開かれ、ジイドが司会、マルローやレオン・ブルムなどが出席した。週刊誌「ヴァンドルディ」がロラン特集を組み、ジイド、ツヴァイク、ブロック、ゲーノなどが寄稿。『ベートーヴェン研究』第3巻「復活の歌」執筆。人民戦線政府やピカソらの協力により、パリで「7月14日」「ダントン」が上演される。6月、ゴーリキーが死去。論説『いかにして戦争を阻止すべきか』、文芸評論『道づれたち』刊行。 | 2・26事件発生、東京市に戒厳令。4月、ドイツがラインラントに進駐。7月、スペイン市民戦争勃発。ガルシア・ロルカ、キップリング、ウナムーノ、成瀬正一死去。 |
1937(71) | 2月、ラジオで「まだ書きたい作品やアイデアが10年、20年分もある」と語る。スイスから人民戦線のフランスに帰国を決意し、9月、故郷クラムシーに近いヴェズレーに家を買う。『ベートーヴェン研究』第3巻「復活の歌」刊行。片山敏彦が評伝『ロマン・ロラン』(六芸社)を出す。 | 7月、日中戦争が始まる。ロジェ・マルタン・デュ・ガールがノーベル文学賞を受賞。グラムシ、マサリク死去。 |
1938(72) | 5月、スイス・ヴィルヌーヴを去り、ヴェズレーに移住。『回想記』の執筆に取りかかる。革命劇の頂点となる「ロベスピエール」を書きあげる。「ルソー論」および青少年向けの革命史物語『ヴァルミー』を発表。ミュンヘン協定に抗議。 | ドイツがオーストリアを併合。9月、ミュンヘン協定。フランス人民戦線崩壊。 |
1939(74) | 7月、革命劇「愛と死との戯れ」が、フランス革命150周年を機に、コメディ・フランセーズのレパートリーに加えられる。9月、宣戦布告が迫る中、ダラディエ首相に手紙を書き、「危機に瀕するフランスと世界のデモクラシーの大義に対する全的な献身」を表明する。 | 8月、独ソ不可侵条約。9月、ドイツがポーランドに侵入。英・仏が対独宣戦。イェイツ死去。 |
1940年― 未来の人類へ | ||
1940(74) | 対独レジスタンスの若者たちを励ましつつ、最後の著作に専念し、時にパリを訪れる。『ベートーヴェン研究』第4巻「未完のカテドラル①第九交響曲②後期の四重奏曲③フィニタ・コメディア」の完成を急ぐ。青年時代の盟友ペギーの評伝に着手。 | 6月、ドイツ軍によりパリ陥落。独仏休戦条約。ド=ゴールはレジスタンスを呼びかける。 |
1941(75) | クローデルとの友情が回復。レジスタンスに参加している若い友人エリー・ワラックに激励の手紙を書く。 | 5月、独ソ戦。12月、日本が真珠湾を奇襲。独・伊はアメリカに宣戦。タゴール、ベルクソン死去。 |
1942(76) | クローデルの仲介により、ルイ・ジレとの友情が回復。回想『内面の旅路』刊行。 | ツヴァイクが自殺。 |
1943(77) | キリスト教(カトリック)的なビジョンを見る。『ベートーヴェン研究』第4巻「未完のカテドラル①第九交響曲」「同②後期の四重奏曲」刊行。「同③フィニタ・コメディア」を書きあげたころから、もともと弱かった視力がとみに衰えていく。7月、ルイ・ジレ死去。 | ドイツ軍がスターリングラードでソ連軍に大敗。9月、イタリア降伏。12月、日本で学徒出陣。倉田百三が死去。 |
1944(78) | 2月、マルチネ死去。『回想記』を書き続ける。11月、ソビエト大使館の革命記念祝賀会に出席。12月9日、レジスタンスの犠牲者追悼会にメッセージを送る。病床で評伝『ペギー』の印刷が終わったことを聞き、12月30日23時ころ、ヴェズレーで永眠。享年78歳。 | 6月、連合軍がノルマンディーに上陸。8月、パリ解放。9月、フランス共和国臨時政府が成立。11月、米軍による日本本土爆撃が始まる。 |
1945 | 1月3日、ロランの遺言により故郷クラムシーで簡素な葬儀(サン・マルタン教会)。10㌔ほど離れたブレーヴの小さな墓地に埋葬された。『ベートーヴェン研究』第4巻「未完のカテドラル③フィニタ・コメディア」、自伝『敷居、Tの王国』刊行。3月、ロマン・ロラン記念会議が米カーネギー・ホールで開かれ、作家アプトン・シンクレアや公民権運動の指導者W・E・B・デュボイスらが講演。『ロマン・ロランへのオマージュ』が刊行される。シャルル・ボードゥアン、ツヴァイク、ゲーノ、ハインリヒ・マン、ジュール・ロマンらのメッセージを収録。ロランの妻マリーを中心に、「ロマン・ロランの友の会」(Association des Amis de Romain Rolland)の理事会が組織され、12月8日に正式発足。会長はクローデル、副会長はブロックとヴィルドラック、理事にはアラゴンやデュアメル、ゲーノ、ロラン夫人、ロランの妹マドレーヌなどが就いた。 | 3月以降、東京、名古屋、大阪など主要都市への大空襲。5月、ドイツ無条件降伏。6月、国際連合が発足。7月、ポツダム宣言。8月、米軍が広島、長崎に原爆投下。玉音放送。マッカーサーが厚木に到着。9月、日本が降伏文書に調印し、太平洋戦争が終結。 |
1946 | 『「ジャン=クリストフ」から「コラ=ブルニョン」へ』(1912年~1913年の日記抄)、回想『周航』刊行。6月16日、「友の会」が第1回総会を開催。8月、「友の会」会報の第1号を発行。 | 3月、みすず書房創業。ヘッセがノーベル文学賞を受賞。ハウプトマン死去。 |
1947 | 『あるレジスタンス闘士へのロマン・ロランの手紙』『青春の思い出 1866年~1900年』(『回想録抜粋)刊行。みすず書房が『ロマン・ロラン全集』(第1次)の刊行を開始(全70巻)。 | ジイドがノーベル文学賞を受賞。ジャン=リシャール・ブロック死去。 |
1948 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第1巻「マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークへの手紙」刊行。アンドレ・モロワが書評を書く。 | マハトマ・ガンジー暗殺。 |
1949 | 『ベートーヴェン研究』第5巻「ベートーヴェンの恋人たち」刊行。『カイエ・ロマン・ロラン』第2巻「ルイ・ジレ=ロマン・ロラン往復書簡」も出版され、アンドレ・モロワが書評を書く。6月、「日本・ロマン・ロランの友の会」発足。委員長は片山敏彦、副委員長は宮本正清。9月に会報第1号を出す。 | シュトラウス、メーテルリンク死去。 |
1950年― | ||
1950 | アルコスが評伝『ロマン・ロラン』を出す。3月、小説『ピエールとリュース』を翻案・脚色した映画『また逢う日まで』(監督・今井正、東宝)公開。11月、日本・ロマン・ロランの友の会が、あらためて会報「UNITE(ユニテ)」第1号を発行。 | バートランド・ラッセルがノーベル文学賞を受賞。バーナード・ショー死去。 |
1951 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第3巻「リヒャルト・シュトラウスとロマン・ロランの往復書簡」、『インド』(1915年~1943年のインドに関する日記の抜粋)が出る。早稲田大学の大学院生だった蜷川譲が「ロマン・ロラン協会」を立ち上げる。11月に会報「ロマン・ロラン研究」第1号を発行。毎号テーマを決めて発行し、1983年の140号まで続く。 | アルフォンス・ド・シャトーブリアン、ジイド死去。 |
1952 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第4巻「ユルム街の僧院」(エコール・ノルマル時代の日記と母親宛の手紙、哲学論文「真なるがゆえにわれ信ず」を収録)刊行。 | 11月、米国が初めての水爆実験に成功。 |
1953 | 『戦時の日記』(全1巻)刊行。 | |
1954 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第5巻「この燃える魂…」(1887年~1891年のロマン・ロラン宛アンドレ・シュアレスの手紙)、第6巻「ローマの春」(1889年~1890年にイタリアから母親に宛てた手紙)、『ヘルマン・ヘッセとロマン・ロランの往復書簡』(ヘッセの水彩画の複製付)が出る。11月、日本・ロマン・ロランの友の会が、ロラン没後10年を記念して講演会を開催。 | ヘミングウェイがノーベル文学賞を受賞。 |
1955 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第7巻「フランス的友情」(シャルル・ペギーとロマン・ロラン往復書簡)、『ジャン=クリストフとアルメル』(1924年~1931年のロマン・ロランとジャン・ボダンの往復書簡)が刊行。戯曲「サヴォナローラ」の断片が「ヨーロッパ」誌に出る。 | |
1956 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第8巻「ファルネーゼ宮へ帰る」(1890年~1891年にイタリアから母親に宛てた手紙)、『回想録』刊行。 | カロッサ死去。 |
1957 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第9巻「十六世紀イタリア絵画の凋落」(1895年のラテン語博士論文のフランス語版)刊行。リニェ・ポーとの往復書簡も出る。 | |
1958 | みすず書房が『ロマン・ロラン全集』(第2次)の刊行を開始(全35巻)。 | |
1959 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第10巻「親しいソフィーア(1)」(マルヴィーダ宅で出会った女友だちソフィーアへの手紙)刊行。 | |
1960年― | ||
1960 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第11巻「親しいソフィーア(2)」刊行。ロランの妹マドレーヌが死去。 | ベトナム戦争勃発。カミュ、パステルナーク死去。 |
1961 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第12巻「ラビンドラナート・タゴールとロマン・ロラン」刊行。10月、片山敏彦が死去。 | 10月、ソ連が人類史上最強の威力を持つ水爆「ツァーリ・ボンバ」の実験に成功。ヘミングウェイ死去。 |
1962 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第13巻「この遠き日々」(アルフォンス・セシュとロマン・ロランの往復書簡)刊行。戯曲「マントーヴァの包囲」「ジャンヌ・ド・ピエンヌ」が日本語版のみ出る。 | 10月、キューバ危機。 |
1964 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第14巻「エルザ嬢」(ドイツ人エルザ・ヴォルフ宛の手紙)、第15巻「二人が出会う」(1910年~1918年のジャン=リシャール・ブロックとの往復書簡)刊行。 | |
1966 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第16巻「ロマン・ロランとフィレンツェの〈ラ・ヴォーチェ〉運動」(イタリアの青年たち、特にプレッツォリーニとの往復書簡とロランの日記断片)刊行。11月、日本で「ロマン・ロラン生誕100年祭」(実行委員長・宮本正清)。大仏次郎や加藤周一による講演会、劇団民芸による戯曲「狼」の上演などを実施したほか、ロランが愛したベルリオーズ、彼の傑作「ロメオとジュリエット」全曲をNHK交響楽団が上演した(日本初演)。 | ネルーの娘インディラがインド首相に就任。 |
1967 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第17巻「どこから見ても美しい顔」(様々な人物に宛てた1886年~1944年の書簡選集)刊行。 | |
1968 | 8・9月、「ロマン・ロラン展」を東京、名古屋、大阪で開催(主催=読売新聞社)。ロラン夫人も来日して展示会場を回った。9月15日、ロラン夫人を歓迎する晩餐会を開催(京都)。 | 川端康成が日本人初のノーベル文学賞に輝く。マーティン・ルーサー・キング暗殺。 |
1969 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第18巻「挨拶と友愛」(アランとの往復書簡や、アランによるロランに関するプロポ)、第19巻「ガンジーとロマン・ロラン」(往復書簡・日記等)刊行。 | |
1970年― | ||
1971 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第20巻「わたしは危険になりはじめた」(1914年~1916年の母宛の手紙)刊行。3月、宮本正清が私財を投じて「財団法人ロマン・ロラン研究所」を京都に設立。日本・ロマン・ロランの友の会で唯一、活動を継続していた京都支部がこれに合流し、読書会や講演会、音楽会などを定期的に開催。会報「UNITE(ユニテ)」の発行も続ける。 | ネルーダがノーベル文学賞を受賞。ヴィルドラック死去。 |
1972 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第21巻「岸から岸へ」(ヘルマン・ヘッセとの往復書簡と日記断片)刊行。 | |
1973 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第22巻「精神の名誉のために」(1898年~1914年のペギーとの往復書簡)刊行。11月、ロマン・ロラン研究所が「ユニテ」第1号(第3期)を発行。 | |
1975 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第23巻「精神の独立」(1919年~1944年のジャン・ゲーノとの往復書簡)刊行。 | ベトナム戦争終結。 |
1978 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第24巻「伯爵様」(ロマン・ロランとトルストイの各種文書)刊行。 | |
1979 | 11月、みすず書房が『ロマン・ロラン全集』(第3次)の刊行を開始(1985年12月に全43巻が完結。2016年現在、日本語で読める最新版の全集)。 | ソ連がアフガニスタン侵攻。 |
1980年― | ||
1980 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第25巻「飛翔中に」(ジャン・ド・サン=プリとの往復書簡)刊行。 | |
1982 | 11月、宮本正清が死去。 | |
1983 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第26巻「友と友」(1906年~1914年のアルフォンス・ド・シャトーブリアンとの往復書簡)刊行。 | |
1985 | 4月27日、ロラン夫人が死去。享年90歳。ロランの遺稿はパリの国立図書館に収蔵された。 | |
1987 | 『ロマン・ロラン シュテファン・ツヴァイク往復書簡』(1910年~1940年 全2巻)刊行。 | |
1989 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第27巻「ロマン・ロランとNRF」(ジイド、マルロー、ガリマール等との往復書簡・日記断片)、『最後の扉の敷居際で』(神父との書簡・日記抜粋)刊行。 | ソ連がアフガニスタンから撤退。 |
1990年― | ||
1990 | 『パナイト・イストラティ ロマン・ロラン全往復書簡』(1910年~1935年)刊行。 | 8月、イラクがクウェート侵攻。 |
1991 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第28巻「ロマン・ロラン ゴーリキー往復書簡」(1916年~1936年)刊行。 | 1月、湾岸戦争。 |
1993 | 『ジクムント・フロイト ロマン・ロラン往復書簡』(1923年~1936年)刊行。 | |
1994 | 『アンドレ・ジイド ロマン・ロラン往復書簡』『まことの祖国、それは光です!』(アンネット・コルプとの往復書簡〈1915年~1936年〉)刊行。 | |
1992 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第29巻「モスクワへの旅」(未発表の7通の手紙含)刊行。 | |
1995 | 3月、上田秋夫が死去。 | 1月17日、阪神・淡路大震災。 |
1996 | 『カイエ・ロマン・ロラン』第30巻「友と友Ⅱ」(1914年~1944年のシャトーブリアンとの往復書簡)刊行。 | |
2000年― | ||
2001 | 9月11日、米同時多発テロ。10月、米主導の有志連合等がアフガニスタンでタリバン等への攻撃開始。 | |
2007 | 10月、ロマン・ロラン研究所が東京で懇談会「小尾俊人氏を囲んで」を開催。「現代の青年はロランから何を学ぶべきか」という質問に、小尾は「厳しく現実を見据えながら高い理想に向かって進む、その生き方だ」と回答。 | |
2008 | 10月、ロランが晩年を過ごしたフランス・ヴェズレーで「ロマン・ロラン国際平和シンポジウム」開催(主催=Association Romain Rolland)。シンポジウムに合わせてピアニスト・神谷郁代の演奏会を実施。ロマン・ロラン研究所などの呼びかけで、日本からも多数が参加した。 | ソルジェニーツィン死去。 |
2009 | 10月、みすず書房で『ロマン・ロラン全集』の編集に携わり、ベートーヴェン研究に取り組んだ青木やよひが死去。 | |
2010年― | ||
2011 | 8月、みすず書房創業者の小尾俊人が死去。12月、デュシャトレ著『ロマン・ロラン伝』の邦訳が出る(1990年に退職していた小尾がみすず書房に出版を持ちかけたもので、小尾は初校のゲラ刷りに目を通し終えてから没した ※「ユニテ」39号)。 | 1月、シリア内戦始まる。3月11日、東日本大震災。 |
2012 | 4月、ロマン・ロラン研究所が一般財団法人に移行。ロラン晩年の記録『ヴェズレー日記 1938-1944年』刊行(ジャン・ラコスト編 パリ・バルティヤ社刊)。 | |
2014 | 5月、仏文学者の村上光彦が死去。7月、ロマン・ロラン協会を立ち上げた蜷川譲が死去。デュシャトレ編『往復書簡 ロマン・ロランとジョルジュ・デュアメル(1912~1942)』クラシック・ガルニエ刊、『往復書簡 ロマン・ロラン/シュテファン・ツヴァイク(1910~1919)』アルバン・ミシェル刊。 | 6月、イスラム過激派組織ISILが国家樹立を宣言。 |
2015 | ブログ「ロマン・ロランと生きる」開設。『往復書簡 ロマン・ロラン/シュテファン・ツヴァイク(1920~1927)』アルバン・ミシェル刊。 | ISILが日本人の人質を殺害。米国とキューバが国交回復。11月13日、パリ同時多発テロ事件発生。 |
2016 | 1月29日、ロラン生誕150周年。大英図書館がブログでロランの生涯を取り上げる。本サイト「ロマン・ロランの生涯」開設。2月、出版社の鉄筆が『ピエールとリュース』の新版刊行を記念して読書感想文コンクールを実施。4月、ロマン・ロラン研究所が「ユニテ」43号を発行。生誕150周年を記念したイベントを開催。11月、大佛次郎記念館がロマン・ロラン生誕150周年記念展示「大佛次郎のフランス」を開催(2017年3月12日まで)。インド学者の森本達雄が死去。Wolfgang Kalinowskyがロランとマルヴィーダ・フォン・マイゼンブークの往復書簡集を出版。1890年から1903年に交わされた1400通を超える書簡を3冊にまとめた。『往復書簡 ロマン・ロラン/シュテファン・ツヴァイク(1928~1940)』アルバン・ミシェル刊。 | 3月22日、ベルギー連続テロ事件発生。同29日、安全保障関連法が施行。4月、熊本地震。5月、オバマ米大統領が広島を訪問。6月、英国が国民投票でEU離脱を決定。9月、パナマ文書公開。12月、安倍首相が真珠湾を訪問。改正通信傍受法が施行。 |
2017 | 6月、ロマン・ロラン研究所が「ユニテ」44号を発行。埼玉県の東松山市教育委員会が、ロランの依頼で肖像彫刻を制作した高田博厚の没後30年展を開催(高坂図書館で7月2日まで)。10月、ロマン・ロラン研究所理事の宮本エイ子氏が、フランス共和国国家功労勲章オフィシエを受章。みすず書房が新社屋へ移転。ロマン・ロラン研究所評議員を務める守田省吾氏が社長に就任。 | 1月、トランプ米大統領就任。「米国第一主義」を掲げる。7月、共謀罪(対テロ準備罪)新設法が施行。国連で核兵器禁止条約が採択される。核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)がノーベル平和賞受賞。 |
2018 | 3月、三木原浩史著『ロマン・ロラン著 三つの「英雄の生涯」を読む』(鳥影社)刊行。4月、ロマン・ロラン研究所が「ユニテ」45号を発行。10月、埼玉県・東松山市が「高田博厚展2018」を開催。 | 1月、北朝鮮がICBMの実戦配備を宣言。6月、史上初の米朝首脳会談。7月、オウム真理教事件に関わった13人に死刑執行。11月、第一次世界大戦終結100周年。12月、シリアからの米軍撤退を発表。米国がユネスコを脱退。年間を通じ世界各地で地震や噴火、豪雨など自然災害が相次ぐ。 |
2019 | 4月、ロマン・ロラン研究所が「ユニテ」46号を発行。7月、みすず書房刊『ロマン・ロラン伝』の著者ベルナール・デュシャトレ氏が死去。10月、宮本正清/補訂・宮本ヱイ子『ジャン・クリストフ物語』(制作:みすず書房 発行:ロマン・ロラン研究所)刊行。日本ロマン・ロランの友の会の設立70周年を記念して、京都コンサートホールでイリーナ・メジューエワによるピアノリサイタルを開催(主催:ロマン・ロラン研究所)。 | 1月、中国の月探査機・嫦娥4号が人類史上初めて月の裏側へ到達。4月、フランス・パリのノートルダム大聖堂で大規模な火災。日本では明仁が天皇位を退位し、平成が終わる。5月、皇太子徳仁親王が天皇に即位、令和へ改元。6月、香港でデモが激化。7月、京都アニメーション放火殺人事件発生。8月、INF(中距離核戦力)全廃条約が失効。10月、沖縄県の首里城で火災。11月、フランシスコ・ローマ教皇が来日。核兵器廃絶を求める。12月、中国で原因不明の肺炎患者の発生が確認される。 |
2020年― | ||
2020 | 1月、仏文学者・詩人の清水茂氏が死去。3月、宮崎の詩人・後藤光治氏が個人詩誌「アビラ」で「ロマン・ロラン断章」の連載を開始。4月、ロマン・ロラン研究所が「ユニテ」47号を発行。12月、ベートーヴェン生誕250周年。 | 1月、原因不明の肺炎は新型コロナウイルスによるものであると特定。3月、WHO(世界保健機関)がパンデミック相当との認識を示す。東京五輪は1年延期に。4月、日本政府が緊急事態宣言を発令。 |
2021 | 4月、ロマン・ロラン研究所が「ユニテ」48号を発行。9月、日仏会館・フランス国立日本研究所がオンライン講演会「フランス革命、文学的想像力への汲みつくしえぬ源泉―ロマン・ロランの『革命劇』をめぐって」を開催(講演者は大阪大学のエリック・アヴォカ特任准教授)。10月、高橋純編訳「高田博厚=ロマン・ロラン往復書簡―回想録『分水嶺』補遺」(吉夏社)刊行。ベートーヴェンの名演で知られるピアニストの神谷郁代氏が死去。 |
1月、米国で議事堂襲撃事件発生。核兵器の保有を全面的に禁止する核兵器禁止条約が発効。2月、ミャンマーでクーデーター。日本で新型コロナワクチンの接種始まる。7月、ハイチ大統領暗殺。中国や欧州で記録的豪雨。日本・熱海で大規模土石流発生。東京五輪開幕。8月、タリバンがアフガニスタン全土を掌握。米軍は撤退へ。10月、岸田文雄氏が第100代内閣総理大臣に就任。 |
2022 | 2月、ロマン・ロラン研究所が新しいサイトを公開。3月、作家・郷原茂樹氏が開設した南風図書館のブックレット「みなみ風」第1号でロマン・ロランを特集。7月、ロマン・ロラン研究所が「ユニテ」49号を発行。 | 1月、トンガの海底火山が大規模噴火。2月、英国エリザベス女王が在位70年。北京五輪開幕。ロシアがウクライナへ侵攻。7月、安倍晋三元首相が銃撃され死亡。世界各地で豪雨・干ばつの被害。円安が加速。9月、英国エリザベス女王崩御。 |
Last Update 2022/9/14