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1915年8月 アメデ・デュノワが「戦いを超えて」の小冊子を刊行


アメデ・デュノワは、ロランと同じクラムシーの出身。小冊子にはロランの論説「戦いを超えて」「戦争中の慈善」と、デュノワの序文が収められている。地下出版ではなく、当局の許可を得て出版した。

ただし、許可が下りるまで約半年を要し、検閲により本文も大きく削除することを余儀なくされた。検閲で削られた部分は空白になっている。

ロランの戦時の日記には、デュノワが小冊子を出すまでの経緯が記されている。それによればデュノワは、友人配布用に無削除版を150部作成したという。彼にとって、命を賭けるに値する仕事だったに違いない。

以下、みすず書房『ロマン・ロラン全集【27】』所収「戦時の日記Ⅰ」片山敏彦ほか訳から

「『ジュルナル・ド・ジュネーヴ』紙はフランスにはほとんど配布されておらず、フランスの新聞はもちろんあなたの論文を再録しようとはしなかったのです。したがって、その論文の安価な小冊子をつくることが必要であると思われます。もしあなたもそうお考えなら、私にそうおっしゃって下されば、私がこしらえます」(1914年11月の日記 ロラン宛のデュノワの手紙から P100)

「アメデ・デュノワが、われわれのパンフレット(二つの論文『戦いを超えて』と『戦争中の慈善』)に関する検閲との悶着を知らせてきている。検閲者はなんと作家のキストマッケルである!」(1915年3月の日記から P286)

「政府は自分の邪魔になる独立不羈な人びとを厄介払いする巧妙な方法を考え出した。すなわち、彼らを動員するのである。デュノワは次のことを書き送ってきた(三月二十六日)――『親しい友よ、私は動員され、明日ディジョンの第八看護兵隊に向けて出発します。どんなことがあろうと、パンフレットは出版されるでしょう。すべての準備は整っております(後略)』」(1915年3月の日記から P286)  「『ラ・ヴィ・ウーヴリエール』誌(パリのサンディカリズムの雑誌)の編集者アルフレッド・ロスメルから――『(前略)デュノワが動員されたとき、あなたの《ジュルナル・ド・ジュネーヴ》紙の二つの論文をいれた小冊子の出版を確かなものとする世話を私に託しました。それについては残念ですが、申し上げるべき新しいことは何もありません。校正刷はあいかわらず《協議会》の管理下にあります(後略)』」(1915年5月の日記から P352)

「彼の小冊子(私の小冊子だ)はやっと出ようとしているが、検閲によって手足をもぎとられてである。序文213行のうち120行が飛んでしまった――『つまり、重要なところは全部です。』私の文章も切り取られている(中略)けれどもデュノワは、ただ友人たちにのみ手渡すべき、検閲なしのものを150部つくった」(1915年6月の日記から P423)

「やっと、アメデ・デュノワが出版した小冊子――私の二つの論文『戦いを超えて』と『戦争中の慈善』に、彼の序文をつけたもの――を一部受け取った。この小冊子は、去る二月からずっと、検閲の査証を待っていたのだ。そしてよくしこまれた検閲が、やっとその査証をあたえたのは(多数のおびただしい削除をして)、『戦いを超えて』を全文再録しているマシスのパンフレットの出版を許した(おそらくは扇動した)のちなのだ。動員されているとはいえ、デュノワは、この小冊子の初めにつけた『出版者の覚え書』によって、勇気をもって抗議している。マシスに関し、またわれわれに関して、汚らわしくもなされたその処置の不公平に、彼は読者の注意を引いている。彼はさらに、マシスがデュノワの小冊子の校正刷について通知を受けていたことを、証明する。なぜなら、マシスはリープクネヒトに関するノートを再録しているからであり、このノートは原本には存在しなかったのだから。この無分別は、検閲以外の仕業たりえないのだ(中略)デュノワの小冊子は、ジュネーヴの『戦争俘虜国際事務局』のために、二十五サンチームで売られている」(1915年8月の日記から P464)