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ロマン・ロラン関連人物


ルネ・アルコス
Rene Arcos
(1881-1959)

アベイ派の人びと(前列左から2人目がアルコス)



(右から)アルコス、版画家フランツ・マズレール、
ロマン・ロラン 1919年頃 Dormira Jamais



アルコスとロラン Rene Arcos "Romain Rolland"
Mercure de France 1950


1881年11月16日、フランスのクリシー生まれ。1903年に処女詩集『本質的な魂』を出版し、詩人として出発する。1906年にはジョルジュ・デュアメル、シャルル・ヴィルドラック、ジュール・ロマンらと「アベイ(僧院)派」を標榜し、芸術家の共同生活を始める。この時期に書かれた詩集『空間の悲劇』は、反戦平和をうたうヒューマニスト的理想を掲げている。

第一次世界大戦時には「シカゴ・デイリー・ニュース」紙などの特派員として活躍。1915年8月、ロマン・ロランに手紙を出し、同13日に初めて面会した。そのときの印象をロランは「戦時の日記」に書き記している。

三十がらみの、肥満した、よく笑う、非常にパリっ子的な風貌の、小男である(中略)アルコスは、知的な、優秀な、じつに優しい青年である。だが、深い真面目さの何たる欠如だ!


※少なくとも外観では。なぜなら、それ以後、彼自身のもっとも真面目なところを彼は外にあらわさないことを、私は見たのだから(後年の注)
(ロラン全集【27】所収「戦時の日記Ⅰ」P482~483)

1917年10月、スパイの汚名を着せられ特派員を解任される。大戦が終わると出版社「サブリエ」を設立。1919年に「多くの出版社が危惧して拒否したロランの『LILULI(リリュリ)』の出版を敢行して有名になった」(朝吹登水子著『パリの男たち』人文書院 P161)。

アルコスがつくる本について独・仏文学者で詩人の片山敏彦は、「内容と外観とのあいだにうつくしい調和があって見飽きずまた読み飽きない」とし、「そういう本は無言の良友のようなもので、多忙な生活の寸暇をも、精神の灯で照らしてくれる無比の力を内具している」と高く評価した(片山敏彦文庫の会「片山敏彦文庫だより【6】」P12)。

1920年には自身の詩を含むアンソロジー『戦争に反対する詩人たち――フランス詩選1914‐1919』を出版。序文を寄せたロランは「われらの詩人たちの多くは、人間的一致(ユニテ)を歌った。他の誰よりもアルコスが力強く」(『ロラン全集【18】』所収「先駆者たち」P205)と評し、後にベートーヴェン研究の一冊をアルコスに捧げた。

1923年2月、ロランの発案で月刊文化誌「ヨーロッパ」を創刊。人類連帯の理想に燃え、初代主筆として活躍する。同誌はいち早くガンジーやタゴール、ゴーリキーなどを紹介し、反ファシズム文化運動にも貢献した。

愛する息子と妻に先立たれたアルコスは、第二次世界大戦が終わるとあまり詩を書かなくなり、サブリエの仕事を細々と続けた。1950年には評伝『ロマン・ロラン』を刊行。しかし誤りが多く、ロランの近くで長い時間を過ごした友人の著作としては残念な出来となった。ロランの妻マリーは憤慨し、正誤表を作成して同書を贈られた人々に与えていたという(『「日本・ロマン・ロランの友の会」と財団法人ロマン・ロラン研究所六〇年の歩み』P107)。

1959年7月16日、脳溢血で死去。彼が暮らした家は日本人画家の菅井汲が買い取ったと伝えられる(朝吹登水子著『パリの男たち』人文書院 P168)。

主な所蔵資料

■自筆書簡 1919年2月4日付

文芸誌「La Gerbe」の編集長 Albert Gavy-Bélédin に宛てたもの。出版事業を興そうと考えていることを告げている。

私は友人などの作品を豪華版のシリーズで出版する計画を立てています。ロマン・ロランの未発表の作品から刊行を始めるつもりです(中略)いつも私を魅了してきた出版の世界、そしてフランスのために成すべきことが多くあります――。



 
主な邦訳作品

まとまった邦訳作品はないが、平凡社『世界名詩集大成』などに何篇かの詩が紹介されている。ロランに関する記事の邦訳には、西本晃二訳「ロマン・ロランの思い出」(『筑摩世界文学大系【54】』所収)や、蛯原徳夫訳「ロマン・ロラン最後の5年」(中央公論1950年6月号)がある。


詩「すべてが失われてはいないだろう」
すべてが失われてはいないだろう――
どんな勝利者も 手を触れることのできないほどの
ゆたかさと光栄とが 存在の底に
今もわれらのために残っている以上。

われらの心の底に残っている愛情が
すべての大砲によっても 憎しみに変えられないほどのものであり
精神の高みへ登るはつらつたる喜びが
最も高い峯に到る努力をもいとわない以上。

たぶん何一つ失われてはいないのだろう――
われらのために まだこの眼ざしの力が残っており
それが 数百年の時を超えて
別の一つの宇宙調和を見つめている以上。
何一つ失われてはいないのだろう――
われらとともに生きているただ一人の人間が戦乱のただ中で
依然としてこれまでどおりの彼でありつづけているために
世界の希望がすっかり救われている以上。
(平凡社『世界名詩集大成【4】』所収P393~394 片山敏彦訳)



「ロマン・ロランの思い出」から
「なに? ロマン・ロラン? あんな男になんの影響力もあるものか。いったいどこで、誰があの男のことなぞ問題にしているというのだ?」こういう言葉をどれほどたくさん、それも一度などは人もあろうに政府の高官で、情報局長の地位にある人物の口からさえ、聞いたことか。「誰も問題にしているものか」だと? いったい私がこの眼で、手紙の配達ごとに、世界の五方十方から手紙が、それこそ束になってロランの所に届けられるのを見なかったとでもいうのだろうか?(中略)

「ロランは一時代における人類の良心の声を代弁した」などと繰返すつもりはない。なぜといって、こんな大仰な言いまわしは、いつでもロランを苦笑させることにしかならないからだ。そんなことより、もっと簡単明瞭に、ロランこそは声なき人々、猿轡(さるぐつわ)をぎゅうぎゅう喉(のど)の奥までかませられてしまったがために、声を出すことさえできなかった人々の声だったのではなかろうか?(中略)

ただ一人で世間一般のおもむくところからおのれを解放するのは至難の業である。私はこれまでに何人かの「屈服せざる人々」を識る機会を得た。これらの人々は――ほとんどの場合が――畏(おそ)れを知らぬ心、何物にもめげぬ魂の持主であった(中略)われらが友ロランもまた、この名で呼ばれるにふさわしい人物である。が、その故に、正にその故にこそロランを最も烈しく執拗に攻撃した敵たちは「屈服した連中」のうちに見出されたのである。これこそ、奴隷の憎しみは、自分達を奴隷の絆に縛りつけておく主人に向うよりは、奴隷の身分を抜け出ることに成功した者に向けられる、という事実の何よりの例証にほかならない(P383)

この「影響皆無」と言われた人物は、大戦まさにたけなわのその時に、幾千という自分と同類の人間にとって、導きの光となったのであった。ロランは算(かぞ)え切れないほどの悲嘆、それもこの上なく悲痛なものから、まったく思いがけない悲しみまで、無数の悲嘆を受け止めてやらねばならなかった。あらゆる種類の訴え、傷つき痛めつけられた者たちの引裂くような叫び、良心の深刻な葛藤、苦悩に満ちた告白、ロランはこれらすべてを識り、聞いてやらなければならなかったのだ。日を追って、押寄せる手紙の波は大きくなるばかりで、ロランはその波に呑み込まれんばかりにさえみえた。しかしロランは、疲れを知らぬがごとく、日に三、四時間しか休養を取らず、到着する手紙に一通のもれなく返事を書き、それも一人一人が渇望していた、慰めと啓示の言葉を与えてやったのだ。ロランの仕事をする能力、さらには幾千とある言葉の中からいつでも、ただその言葉のみが相手の期待している傷口に安らぎをもたらすことができる、そういう言葉を選び出す才能には感嘆措くあたわざるものがあった(P384)

わが国の戦時中の各内閣が、ロマン・ロランを意見発表不可能な状態に追い込もうとして、いかに多種多様の手段を弄したかということは、一般にはあまり知られていない(中略)全世界に幾百万という読者をかぞえ、かつては多くの新聞が、とうてい応じてはもらえぬと知りつつも、寄稿を依頼して来たこの作家が、ついには名も知れないちっぽけな雑誌、それも広告主やお得意の間にただで配布される宣伝用の小冊子にしか原稿を載せることができなくなってしまったのだ。しかもそれさえ、そんなものをうちに持って来てもらっては困る、などという、底意地の悪い、ケチな店屋のおやじの文句を一再ならず受けながらである(P385)

醜い争いに伴う心の荒廃と穢辱(おじょく)が、世界中の心の水脈を、最も清澄なものにいたるまで、ほとんど余すところなく混濁させてしまったあの時代に、ロランの清冽な良心の泉に渇きをいやすというたぐい稀なる特権に恵まれたことは、われわれにとって長く想い出として残ることであろう(P386)



「ロマン・ロラン最後の5年」から
「知識人の最大の義務は」とロランは私宛の手紙で述べている。「(たとえ気質の上からある党派に属してはいても)常に党派を超えて、または同時にあらゆる党派の立場から、見ることです(見ようと努めることです)。党派の目隠しのあるのは政治ばかりではなく、芸術においてもそうです」(P118)

戦争の間じゅうロランは他の数多くの仕事と同時に手記をまとめつづけていた。それがロランの「内面の旅」と称しているものである。それについてロランは私宛の手紙(1944年3月23日)で「稀に私の解放された時間(病気や医療や心労から解放された時間)に、私は手記の続きを書いています。誰のためにか。なんのためにか。私自身をなおよく理解するためにです。私たちに光が与えられている間に、なおもっと見るためにです」(P119)