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ロマン・ロラン関連人物


マルヴィーダ・フォン・マイゼンブーク
Malwida von Meysenbug
(1816-1903)


画家レーンバッハによる肖像(1890年)


マルヴィーダが暮らしたポルヴェリエラ通り(2010年筆者撮影)


マルヴィーダの墓(2010年筆者撮影)
1816年10月18日、ヘッセン選帝侯の大臣カール・リヴァリェ・フォン・マイゼンブークの第9子として首都カッセルに生まれる。母親は芸術的な素養に恵まれており、マイゼンブーク家には芸術家の出入りが絶えなかった。

1830年7月、パリで起きた革命の余波がカッセルにもおよぶ。マルヴィーダは初めて「革命」という言葉を耳にし、父親は憲法の起草にあたる。1832年に憲法が発布されると、父親は選帝侯とともに遍歴へ。マルヴィーダたち家族は西北ドイツの小都市デトモルトに移る。

1844年、デトモルトの主席牧師アルトハウスの長男テーオドールと婚約。理想主義的な政治思想を持つテーオドールが「危険人物」とみなされたことで、マルヴィーダと家族の関係は疎遠になる。父親が死去。1848年、テーオドールとの婚約を解消する。

1850年、ハンブルクで新生活を始め、「婦人高等学園」の事業に参加。女性の法律的・経済的・政治的平等を目指す活動に関わる。1852年、官憲の追及をかわしロンドンへ亡命。

1853年、翻訳や家庭教師でかろうじて生計を立てる。自殺を思う日もあったが、彼女の周囲には哲学者ニーチェ、音楽家ワーグナー、革命家マッツィーニなどが集い、新しい時代を告げる先駆者たちのサロンが形成されていった。

「社会主義の父」と呼ばれるゲルツェンとも知り合い、彼の末娘オルガの家庭教師となる。後年、オルガは歴史家ミシュレの弟子でエコール・ノルマルの教授だったガブリエル・モノーと結婚。ロマン・ロランはこのモノーの教え子であり、彼によってマルヴィーダに引き合わされることになる。

1869年、スイスで『一理想主義者の回想』第1巻を匿名で出す(フランス語版)。1870年、ワーグナーとコジマの結婚式に立ち会う。1876年、シュトゥットガルトで『一理想主義者の回想』の完全版をドイツ語で出す。

1877年、ローマに定住。コロッセオにほど近いポルヴェリエラ通りに居を構えた。

1889年、ヴェルサイユに滞在中、モノーから教え子のロマン・ロランを紹介される。ロランはローマに滞在した約2年間、毎日のようにマルヴィーダを訪ねた。彼女が語る19世紀の偉人たちの追憶は、彼に生きる意味を教えた。それは人生の真実に迫る「勇気をまなぶ偉大な学校」だったとロランは述懐している。

1903年4月26日、死去。享年86歳。遺言により火葬にされた。1904年4月1日、ローマ市内の非カトリック教徒墓地にて、マルヴィーダの骨壺を納めた記念碑の除幕。台座には彼女の最後の言葉「PACE - AMORE!(平和、愛!)」が刻まれた。

主な邦訳作品

評伝 『マルヴィーダ・フォン・マイゼンブーク』 シュライヘア著/片山敏彦訳 みすず書房
書簡 『ロラン=マルヴィーダ 往復書簡』 
南大路振一訳 みすず書房

主な所蔵資料

■『一理想主義者の回想』

マルヴィーダの主著。1876年、シュトゥットガルトで出版されたドイツ語の完全版で、全3巻を1巻に合冊したもの。
 
■自筆書簡【1】

1894年12月16日付、作家レオンハルト宛


■自筆書簡【2】

1894年12月31日付、作家レオンハルト宛