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ロマン・ロラン関連人物


アルベルト・シュヴァイツァー
Albert Schweitzer
(1875-1965)

1957年頃のシュヴァイツァー





ランバレネのシュヴァイツァー宅(1913年)




地元住民と屋根を修理する




オルガンを弾くシュヴァイツァー




シュヴァイツァーの葬儀に参列した人々




ランバレネにあるシュヴァイツァーの墓



1875年1月14日、当時ドイツ領だったアルザスに、ルター派の巡回牧師の子として生まれた。哲学者ジャン=ポール・サルトルは親戚に当たる。

8歳の頃、人生の方向性を決定付ける体験をする。シュヴァイツァー自身、次のように回想している。

仲間の少年にそそのかされて、朝日の中で美しくさえずっていた数羽の小鳥にしぶしぶパチンコの狙いを定めた。だが私は、なにものかに心をつき動かされて的をはずそうとひそかに誓った。そのときであった。教会の鐘が、陽の光と小鳥のさえずりの中に鳴り出したのである。……それは私には天の声に聞こえた。私はパチンコを放り出し、しっと声を出して小鳥を追い払い、仲間のパチンコから小鳥を守ってやった。そして家へ逃げ帰った(ほるぷ出版『世界伝記大事典【5】』P110)

1893年、シュトラスブルク(ストラスブール)大学に入学。神学と哲学を学ぶ。1896年5月のある朝、30歳から直接奉仕することを決心。1902年にストラスブール大学の神学部講師となる。1904年秋にコンゴ地方の窮状を知り、アフリカ行きを志す。1905年、30歳の誕生日に医療奉仕の決心を固め、冬学期からストラスブール大学の医学部で聴講。1910年12月に医師国家試験に合格した。

1912年6月、ヘレーネ・ブレスラウと結婚。パリで熱帯医療を学び、伝道協会に志願。当時医療に困難を抱えていたガボンのランバレネで活動することを決め、1913年4月に現地に到着した。

1915年9月、オゴウェ河を遡行する旧式の蒸気船の甲板に座っていたシュヴァイツァーは、砂州にいる4頭のカバに目がとまった。その瞬間、「〈生命の畏敬〉という言葉が閃光のように私の心を突きさした」(同書P111)という。小鳥をパチンコで狙撃するのを拒んだ少年時代からおよそ30年。長年にわたる思索と奉仕活動を経て、「生命の畏敬」という概念にたどりついた。

第一次世界大戦のため活動の中断を余儀なくされたものの、その後は活動を再開した。病院の運転資金を得るためヨーロッパ各地で講演やオルガン演奏を行い、著書を出版。シュヴァイツァーの活動に対する認知が高まるにつれて世界各地に支援者が現れた。その献身的な医療奉仕活動が評価され、1952年度のノーベル平和賞を受賞。

1957年4月には、オスロ放送を通じて核兵器の危険性についてアピール。バートランド・ラッセル、パブロ・カザルス、ノーマン・カズンズらと反核運動に参加するようになる。1962年4月、当時のジョン・F・ケネディ大統領に核実験の停止を求める手紙を出し、ケネディから核実験の部分的停止について交渉が進んでいることを伝えられる(翌年、部分的核実験禁止条約が成立)。

1965年9月4日、ランバレネで死去。享年90歳。同地に埋葬された。

ロマン・ロランとシュヴァイツァーは、1905年には出会っている。独・仏文学者で詩人の片山敏彦は、ヘルマン・ハーゲドルンの『砂漠の中の預言者』を参考に、2人の出会いを紹介している。

シュヴァイツァーがロマン・ロランと相識ったのはパリにおいてであり、当時ロランはまだ四十歳になっていなかった(中略)シュヴァイツァーはロランの室を訪ねて数時間談話をし、そしてときどき、或るときはロランが、或るときはシュヴァイツァーが、ロランの室のピアノをひいた。この友情の中で二人は確信した――いついかなるときも文明の基礎は倫理的本質のものであり、もしも倫理的本質が顧みられなくなれば、必ず文明という建物の全体が揺れてくずれるおそれがあると(片山敏彦著『泉のこだま』アポロン社 P47~48)

同年5月、第1回ストラスブール音楽祭が開かれた。この音楽祭はドイツとフランスが領有争いを繰り返し、「永遠の戦場」といわれたアルザスにおいて、音楽を通じて両国の相互理解を促し、平和をもたらすことを目指して企画されたもの。ロランは取材に訪れ、シュヴァイツァーはバッハの演奏会に協力するなど、音楽祭組織の中で重要な役割を果たしていた。このときシュヴァイツァー宅に宿泊したことを、ロランは女友だちのソフィーアに伝えている。

アルバート・シュヴァイツァー博士の家に泊りました。彼は三十台の人で、背の高い、がっちりした人物で、明色(ブロンド)で、陽気です。彼は牧師で、聖トマス神学校の校長で、ストラスブール大学の教授です(中略)その上、彼はすぐれたオルガン奏者です。彼は哲学と神学の著述をしています。そしてJ・S・バッハに関する一流の著書をフランス語で、ライプチッヒから出したところです(バッハ研究では一時期を画する著書です)(みすず書房『ロマン・ロラン全集【35】』宮本正清・山上千枝子訳 P198~199)

ストラスブール音楽祭の崇高な志にも関わらず、やがて第一次世界大戦が勃発する。狂信的な憎悪に感染することなく戦争に反対したロランは、独仏両国から憎まれ、裁かれ、追放された。シュヴァイツァーはアフリカ・ランバレネから、孤立するロランに励ましの手紙を送った。

あなたのお考えは、この悲惨な時代における数少ない慰めの一つです(中略)あなたが現代の熱狂的になった大衆が陥った卑俗さと戦っておられるその勇気のゆえに、あなたをどんなに賛嘆しているかを申し上げずにはおれません(中略)どうかこの戦いを勇敢に戦って下さい。わたしも心からあなたの味方をしています(新教出版社『生命への畏敬 アルベルト・シュワイツァー書簡集』H.W.ベール編 野村実監修 會津伸・松村國隆訳 P36)

大戦後、2人が親しく語り合う機会を得たのは1922年春のパリにおいてだったと、仏文学者の清水茂氏は書いている。

もし、その出会の場に人が居合わせてロランが弾くベートーヴェンとシュヴァイツァーのバッハとを聴くことが出来たら、それらの音色のなかに同じ一つの神性の深いひびきを認めないわけにはゆかなかっただろう(雑誌「アポロン」第2号所収「シュヴァイツァーとロマン・ロラン」清水茂 P90)

ロラン没後の1953年、ロラン夫人からロランの『戦時の日記』を贈られたシュヴァイツァーは、ランバレネから長文の手紙で応えた。

(※『戦時の日記』は)破局的な諸事件の衝撃をじっと忍び背負った一時代の精神の、歴史的な記録として、記録文学の中に一つの独自な位置を占めるでしょう(中略)

来るべき全ての世代に対して、事件が惹き起す熱情に溺れてしまわないように、そして、どの国民にとってもどの個人にとっても、歴史的な事件を通じて唯一の導き手である、ユマニスムの理想に誠実でありつづけるように、と教えるものなのですから。この《日記》を読んで、私たちは大きな名声を荷(にな)っている幾人もの思想家たちが、哀れな仕方で、私たちをがっかりさせるのを感じる一方で、またきわめて素朴な人々の中のある人々が彼らの道徳的な良識によって、私たちを鼓舞してくれるのを感じます(中略)

アフリカの孤独の中で、ロマン・ロランの――多くの人々の激昂の的であったロランの――思想を私も与(とも)にしていたのだと知りましたので、《日記》を読んでの感動は、私にとって非常なものでした。彼にとっては、闘うことが運命でした。私には、沈黙が課せられました(中略)

彼はこの《日記》を書きながら、彼自らは気づかずに、私たちが彼について所有し得る最も忠実で胸をうつ彼自身の肖像をつくりました(中略)彼は常に彼自身でありました。これは、多くの人々が彼らの抵抗の試練を受けて、そのために彼らの性格の姿がいびつになっていった当時の嵐の中での、稀有な貴重な天性であります。

親しいロラン夫人、《歴史》はその分野において類のないこの歴史的記録の公刊を、あなたに感謝することになるでしょう。私たち、ロマン・ロランを識り、彼を共感をもって理解していた私たちは、あなたが公刊されたこのご本が保存している彼の肖像について、あなたに感謝しなければなりません。この本により、ロランは文明の歴史の中に彼の位置を占めるのです。そしてまた、私たちの心の中に……(日本・ロマン・ロランの友の会編「ユニテ【VII】」所収 清水茂訳 P23~26)


主な邦訳作品

『水と原生林のはざまで』 岩波文庫ほか
『イエスの生涯』
岩波文庫ほか
『わが生活と思想より』
竹山道雄訳 白水社
『シュヴァイツァー著作集』全20巻
白水社
『生命への畏敬 アルベルト・シュワイツァー書簡集』
H.W.ベール編 野村実監修 會津伸・松村國隆訳 新教出版社

シュヴァイツァーと日本の関わりも面白い。彼は神戸風月堂の銘菓「ゴーフル」を愛し、アルザスの自宅には内村鑑三の筆になる扁額がかかっていたという。



主な所蔵資料

■自筆メッセージ

1955年10月18日、英国の支援者に宛てて書かれたもの。文庫本サイズのオートグラフブック(サイン帳)に書き込まれている。

私は、この小さな友情の本に、最初の名前を記します。今後ほかの方々も同じように名前を記入され、あなたの人生を豊かにする良い思い出を、この小さな本に閉じ込められることを望みます。献身的なあなたのご多幸を祈って――。