ロマン・ロランの生涯  トップページへ

1871年6月、妹マドレーヌが「憐みの啓示」を残して3歳で死去
 片山敏彦文庫の会「片山敏彦文庫だより【2】」所収「片山敏彦とロマン・ロラン」村上光彦 P22
五歳の彼は母と三歳の妹マドレーヌとともに一八七一年の夏をアルカションの海水浴場で過ごしていた。或る日海岸でロマンが他の男の子らにいじめられて泣きべそをかいたとき、それを見ていた三歳の妹は兄の髪の毛を静かに撫でて『かわいそうに』とつぶやいた。兄はなぜか解らず感動して、泣きやめて妹を見つめた。眼に映ったのは妹の『やさしいメランコリックな顔だった。』ただそれだけだった。その夜その妹がホテルの一室でディフテリアらしい病気のために死んで行った。

その後ロランはほとんど毎晩、眠りにつく前、あの妹に語りかける習慣をもつようになった。ロランは書いている――

「私はあの妹からの啓示を認めている。あの妹は私にその啓示を脆い使者として伝えた。それは人間らしい憐れみの心(コンパッション)という啓示であった」

 みすず書房『ロマン・ロラン全集【17】』所収「内面の旅路」片山敏彦訳 P294~296
私は五歳である。私には妹が一人いる、マドレーヌという名で、私より二つ歳下である。一八七一年のことである。六月の末、私と妹とは母と共にアルカシヨンの海岸の砂の上にいる。私は数日来ひどく疲れていて元気がない。無知な医者は、潜伏して悪化しつつある病気を見抜くことができなかった。そして私たちの誰一人それに気づかず、初めて気がついた数日後には妹は、われわれから抜け出して逝ってしまうことになった。

妹は海岸の砂の上に出て来ていた。風がつよく、日光の照りつけている日であった。私は同輩の少年たちと遊んでいる。しかし妹は遊ばないで、砂の上の、柳の枝で編んだ小さな椅子に腰をかけている。そして、口喧嘩をしたり悲鳴をあげたりしている少年たちを黙って見ている。その仲間の中で私はいちばん強い子ではない。そして勝負から追い払われた私は、仏頂づらになりべそをかきながら本能的に小さな妹の足もとにもどって来た。――その小さな両足は、砂までとどかずぶらさがっていた――そして私は、砂をばたばた足ではね飛ばしながら、鼻先を妹のスカートに当ててしくしく泣いた。そのとき妹は小さい手で私の髪の毛を静かに撫でて言った。

「かわいそうな、ちっちゃなマンマン……」

私は急に泣きやめた。なぜかは解らず私は心を打たれた。眼をあげて妹を見上げた。そして私には妹の優しいそして憂鬱(メランコリック)な顔が目に映った。ただそれだけのことである。一瞬間の後には、もうそのことを私は考えもしないだろう――私はそれを考えるだろう、私の全生涯じゅう……(中略)

妹の言ったあの言葉に現われていた憐れみ(ピチエ)の口調。私の頭に置かれていた優しい手。悲しそうな眼ざし……それらのものが私の心の底まで徹(とお)った。妹よりももっと高いところから私に来ている何ものかの啓示を私は受け取った(中略)

私たちは汀(なぎさ)から宿に帰った。太陽が海に沈む。これが、幼いマドレーヌの一生の最後の日である。その夜のうちに妹はディフテリアのような病気のために死んで行った。ホテルの、息苦しい一室の中での、最後の六時間の苦しみ※。私は妹から隔離された。やがてその次に私が見たものは、すでに閉じられた柩と、私の母が切って取った一房の金髪と、そしてマドレーヌを持って行ってしまわないでくれと泣き叫び啜(すす)り泣いてうつろな眼つきになっている私の母の姿とだけだった……(中略)

※妹は自分の死を感じた。彼女の眼が懇願した。彼女はもうほとんど声が出せず、全く小声で話した。しかし彼女は泣いている母に――「こわがらないでよ、ママン!」と言った――それから呼吸困難のための痙攣状態におちいった。死の一時間前に妹は《彼女のちっちゃなマンマン(ロラン)》を呼んでほしいとの意志を示した。その《ちっちゃなマンマン》は眠っていた。そのことが妹に告げられた。彼女は納得した。彼女は彼女の母のひざの上にからだを投げかけてそのまま死んだ――意識はまったく明瞭だった。――「私の心臓(最愛の者)が死んだ」と母は書いた。

私と妹との二つの心は、あの告別の中で、思わず知らず一つに溶けた。あのとき私たちは年齢を超えてしまっていた。そしてそれ以来、互いに離れることなく互いに成長した。なぜなら、ほとんど毎晩、私は眠りに就く前に、私の考えの一つを、定かならぬ形のままに、あの妹に語りかける習慣を捨てない。そして私は彼女において《啓示》を認めている。彼女はその《啓示》を私に伝えた、もろい使者であった。――その啓示とは、彼女が地上を通り過ぎた時の至高の瞬間に、私を彼女に結びつけたところの、貞潔無垢な抱擁の神的な意義――すなわち人間的な《憐れみの心(コンパッション)》である。